「小学校からの英語教育」
最悪の状態。
予算もない、人材もない、時間もない。強い反対論がある。でも、やったことにしたい。
=> なけなしの予算で、できる人ができる範囲で、ちょっと触れる程度に、やんわりと。
= できるようになるわけがない。そういうのを「お飾り程度にやる」という。無駄だ。
(早期英語教育が無駄だといっている訳ではないので注意)
「英語教育の専門家」は、「こんなことではできるようになりませんよ」というべきであろう。
また、逆に、「できるようになる条件」というのを、具体的に根拠を持って示すべきであろう。
(「根拠」が大切。自分の経験談とか、持論とか、意見とか、そういう話では議論にならない。)
例えば、母語と同程度に第二言語を習得するには臨界期以前に習得する必要がある、ということ。
「臨界期以前」に英語を「勉強」したからといって、お茶を濁す程度では、できるようにならないでしょう。
インプットの量が重要だという点について。
大量にインプット・インタラクション・アウトプットがある状況でも、臨界期を過ぎていると、母語と同程度にはなり得ないということ。(例:仕事や結婚のためアメリカに渡った日本人の英語)
そうなると、「母語と同程度」というのが、外国語教育に必要か、という問題につながる。
つまり、母語と同程度に第二言語ができるようになるには、
1)臨界期以前に [必要条件]
2)大量のインプット・インタラクション・アウトプット [十分条件]
が、必要である、ということ。
しかし、「母語と同程度」は必要ない、ということであれば、臨界期を根拠に持ち出す意味はなくなる。
もっといえば、臨界期だけをもちだして、だから小学校から英語を、というのは、必要条件は満たしても、十分条件は満たしてないので、だめだということだ。
ということは、日本の英語教育は母語と同程度を目指すのかどうか、を考えることがポイントとなる。
と、いろんなことを考えさせてくれるありがたい談話会である。(娘のバレエの発表会のため早退しましたが、、、)
逆に、インプット等が大量にあったとしても(例:仕事や結婚のためアメリカに渡った日本人の英語)、臨界期をすぎている場合、「母語と同程度」にはなれないことから、臨界期の存在が「証明」できるでしょう。