言葉の倫理

「地図は現地ではない」と言ったのは、一般意味論の アルフレッド・コージブスキーだ。

言い換えると、言葉はそれが指し示すものそのものではない、ということだ。

さらに言い換えると、言葉は伝えたいことのすべてを言い表せない、ということだ。

しかし、逆に言えば、言葉ですべてを言い表す必要はない、というのが、人と人とのコミュニケーションだ。

言い表したいことを氷の塊全体だとすると、水面に現れるのは氷山の一角。見えない部分の方が多い。

ヘミングウェイが「氷山の理論」というのを唱えていること最近知った。全部言わなくても読者は分かってくれるはずだ、という。どこを水面に出すか、が重要になるわけだ。

言い表したいことを球体に例えれば、球体を照らす光は片面しか照らすことはできない。もしくは、球体を見る、とたとえてもよいだろう。球体の全体を一度に見ることはできない、あちこちから視点を変えて眺めないと全体像は把握できない。

言葉ですべてを言い表せないとしたら、法律はどうなるのか。

そこで「解釈」が行われる。言葉そのものが言い表していることは何かではなく、言葉を使って伝えたいと思っていることは何かを「解釈」する。

文字通りの意味と意図された意味の違い。意味論の意味と語用論の意図の違い。

相手の言っている言葉は分かるけれど、なぜそんなことを言うのか、その意図がわからないときに「What do you mean?」と聞く。意図を理解したいから。

そこにあるのは人と人とのコミュニケーション。

言葉、言語表現は「解釈」される必要がある。

解釈には二種類ある。善意の解釈と悪意の解釈。言葉はすべてを言い表せないのだから、言い表されている言葉を手掛かりに話し手・書き手は何を意図していたのだろうかと、相手の意図を理解しようと努力すること、話し手と聞き手とで協力してコミュニケーションを成立させようとすること、それが善意の解釈。よりよい人間関係につながる。

相手の意図は考えずに、表されている言葉だけを見て、そこに表されていることだけをすべてだと思うこと、さらに、言い表されていない部分を相手の意図とは関係なく自分勝手に「解釈」すること、それが悪意の解釈。表面の言葉だけを見れば、そうとも解釈できないわけではないけれど、それを話し手は意図していないにもかかわらず、そうだと勝手に解釈してしまう。

そこには人と人とのコミュニケーションはない。意図を理解しようという努力はなされない。相手の気持ちを理解しようという思いやりはない。

外国語を学ぶのは何のためか。いろんな目的があり、どれが正しいということはない。しかし、忘れてならない目的の一つが、「地図は現地ではない」ということを身をもって学ぶことではないか。言葉とはどのような性質のものか。人にとって言葉はどのようなものか。言葉はどのように使うべきか。何のために。

そうして、言葉に意識的になって、それを善意に解釈すること。

コミュニケーションは、話し手と聞き手、双方の努力がなければ成立しない。コミュニケーションを成立させるためには、相手のこと、相手の気持ちを考えること、配慮すること、思いやり、善意の解釈をすることが必要だ。

それが言葉の倫理だ。