下手だけれど丁寧な字

字の上手・下手はある。私は下手。
下手な私でも上手な字を見ると上手とわかる。
上手な字がわかっていても上手には書けない。
その点、理解と産出が結びついていない。
 
字の下手な私が言語学を学びだして救われた。音声学で「弁別素性」(distinctive feature) という概念(考えかた)を習ったから。
 
人それぞれ声が違うけれど、「ブ」と「プ」の音は人の声の違いにかかわらず、絶対に分けて扱われる。「ブ」と「プ」は違うのだ。「ブ」と「プ」を分けている特徴こそが「弁別素性」であり、声の大きさとか強さとか、声がかすれていようがいまいが、とにかくその違いだけは守って発音すれば区別できるので問題ないのだ。
 
これは、文字でもそうで、ある文字が他の文字とは違う「特徴」があって、その特徴さえ守っていれば、字が上手であろうが下手であろうが問題ないのだ。
 
ポイントは、他の文字と区別できること、という点だ。
 
逆に言えば、紛らわしい文字というのは、ダメだと言うことだ。なぜ紛らわしい文字がダメかと言えば、区別できないから。区別できないとなると、それは「メディア」としての文字の役割を果たさなくなってしまう。つまり、書いてあっても、紛らわしくて何と書いてあるかわからないということであり、結局、それは、「書いてない」に等しい。
 
なぜそれが問題かというと、それが原因で、最悪、コミュニケーションが成り立たなくなってしまうから。もしくは、そういう状況で、コミュニケーションを成り立たせようとしたら、「受け手」の側が、何と書いてあるのか、そうとう努力をして読み解くということをしなければならなくなる。ちゃんと書いてあれば、不必要な労力をかけなくても読めるのに、ちゃんと書いてないと過重な負担を強いられることになる。ま、迷惑をかけることになる、ということだ。
 
コミュニケーションは、話し手と聞き手、書き手と読み手、送り手と受け手、お互いが平等な立場で、お互いのことを思いやって行わなければならない。お互いに、成り立たせようという努力がなければ、成り立たない。馬の耳に念仏。
 
「紛らわしい字を書く」ということは、つまり、読み手の苦労に対する配慮が欠ける、ということである。迷惑だと言うことである。お互いが協力するという精神に欠けるということである。平等なコミュニケーションをする気がない、ということである。不平等を相手に押し付けるという点で暴力でさえある。
 
外国語を習うということは、言葉に対する意識を高めることであり、さらには健全で平等なよりよいコミュニケーションを行えるようにするためである。
 
自分用のメモ書きなら話は別だが、人に読んでもらうものを書くときに、自分の都合だけで、殴り書きのような紛らわしい字で書いてはいけない。
 
これは、最初に言ったように、上手な字で書くように、ということではない。他の字と間違えられないように、他の字と区別できるように弁別素性を落とさず丁寧に書く、ということである。
 
下手でも丁寧に書く。それが結論。
 
「r」だか「v」だかわからないような殴り書きで書いたものは、この書き手は平等なコミュニケーションをする気がないんだな、読んでほしくないんだな、外国語教育の大切な成果が実っていないな、と思う。×だ。

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