文の一貫性

日本語の母語話者だからといって、日本語の文がちゃんと書けると思ってはいけない。
読んで意味がわかるならいいじゃないのと思ってはいけない。
 
統語的に文に一貫性を持たせること。
情報構造的に文に一貫性を持たせること。
談話構造的に文脈の流れに文を合わせること。

話し言葉では、話している途中で、視点が変わったり、使った表現による制約から文の構造が変わってしまったりすることがあっても、「理解」はできる。話し言葉は、聞き手が「理解」ができれば、言葉の目的は達成され、使われた言語表現は消えてなくなる。

しかし、書き言葉でそういうことをしてはいけない。リアルタイムではないので、言葉を吟味する時間がある。吟味しないで文章を書いてはいけない。吟味して、言語表現としてまずいところ、不自然なところ、不適切なところがないように配慮した結果の産物(「作品」)として書き言葉は読まれる。評価されるのだ。

すなわち、まずい文章は、それを書いた人の言語能力がそこに反映されていると見なされる。評価される。
 
書き言葉は消えてなくならない。証拠として残る。

その後、その人が言語能力を高めたとしても、前書いたものは取り消せない。

めんどくさいよ、手間かかるよ。でも、それが書くってことなんだよ。
 
修行をするしかありません。

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